人生を考える事を考えない事。

初めてブログを書く。もともとmixiTwitterではうるさい方で、よく書きものをするのが好きだった。今はTwitterの居心地が良い。しかし流れて行ってはならない思考があると考えた。それを記録することから始めたい。

目に停めて頂き感謝致します。今日は身の上話をひとつ。

2011留年が決まった冬。大学院に合格した秋。

2012卒業が決まった冬。大学院合格が取り消された春。

まずはこの事件についてお話します。勿論匿名で。とかく大学の入試制度とはすごく厳密なもので、1日足りとも手続きが遅れてはならず、また例外はない。その事を教わった。当然そんな事教わっても何のためにもならず、そしてこの時期に今までのすべてが0になった。私は高校から附属に通い、留年を含めて8年通った訳ですが、何もかも。きっと大学の制度で死人が出てもおかしくないと思うし、事実優秀な博士課程の人も同じミスで取り消しにあったのだとか。勿論平等を喫すためには仕方ないことだと、割りきれてもいる。(追記:挫折のたびに何を学んだか、面接では話すべきと友達に聞いた。なので今回は、指差し確認を学ん?だのかなんなのか。はうぅ。)

言うまでもなく私に非があります。それについてとても凹んだ。普段からルーズなところが、ついにやらかした訳だ。理由には他にもいくつか挙げられ、卒業が可能かどうかすごく不安だったこと、父への経済的負担がどこまでも膨らむ可能性、学部の費用と新研究科への授業料の申し込みなどの心理的負担から、書類を読み違える結果に至る。

何人か心を許す友や恩人に話し、結果から言うと、大学院に通うには歳を取り過ぎた事、既卒での就活も悪くないらしい事、誰もが日々凹みながらも前に進んでいる事を改めて教わり、救われたというよりは、「生きるんだ」と強く思った。そこでタイトルに戻る。

また補足すると、これが分かった日にバイトをクビになっている。笑 もう笑えるのかよくわからないが、病院の当直のアルバイトで「接遇がなってない」と言われた。よくよく調べてみたらこれはどうやら愛想が悪いといったニュアンスだったようで、確かに思い当たる節(顔?)がある。そうだ、手続きも愛想も出来ない非社会的人類なのだと、落ち込んでみた。笑

生きる意味?

我々はよく「なぜ生きてるのか」と考えるタイミングがあるかと思う。少なくとも身の回りではよく聞くし、悩みの帰着点になりがちだと思う。しかしこれは18世紀から19世紀頃普及したロマン主義的思考であると、最近読んでた哲学書(※)に書かれていた。詳しくは各々で調べて頂きたいが、重要なのはこれ以前には啓蒙主義によって人類の平等が説かれ、共同体が信じられていたが、それに対する反動によって「人と違うんだ!」「自分らしさを探すんだ!」といった思想が広がったのだという事だ。これは現代の我々にも息づいているように思う。そして個性を探索することは、答えの見つからない事であり、答えの見つからないように出来ている構造であり、つまりは満足し得ない思想に陥っている事がわかる。※國分功一郎氏「暇と退屈の倫理学」p64,65より

では問題はこういった発想に至った場合、どう考えを転換するか?である。私の答えは至極単純で「生きるために生きてる」って思う事にしたんです。正直マズローのような図は真に重要ではなく、生きる事そのものの自己実現こそが現実に存在するという事ですね。きっとこれでも救われない人が多くいると思う。なぜなら私は人に褒めていただける経験を偶然にも持っている。これが正直いま生きようと思うモチベーションのひとつには間違いない。そもそも生きる自己実現とほめられる事の自己実現が重なっているようなのである。あるいは内側から沸き上がるようなモチベーションではなく、外部から引っ張られるようなタイプではある。それにしてもひとつの答えである。その論拠はいくつかあるのだが(消費社会と浪費の違い、モチベーションにおけるマスタリー)、長くなるし疲れたし一回目だしこれくらいにしておきます。笑

限られた選択肢は①博士課程にまで進む②-1就職活動をする(既卒扱い)②-2就職活動する(既卒で新卒枠扱い)がある。この先はもう少し親と協議しながらも、就活にシフトすると思います。最初っからヘビーな話題ですがw書評というか、読みながら思うことを書き溜めたりすると思います。ではでは〜。